2009年01月27日
忘れるから生きられる
「忘却とは、忘れ去ることなり」という有名なことばを残し、大ヒットした
ラジオドラマがむかしありました。
「君の名は」というタイトルだったと思いますが、その放送の時間には、
当時は終戦直後で家に風呂があるという人は少なく、風呂屋にいく人が
多かったのですが、風呂屋がガラガラになるという現象が起きていたそう
です。
ところで、人間は忘れるということがあるわけですが、忘れること、特に
過去の自分の失敗やあやまちなどを時間の経過とともに忘れるということ
によってこそ、現在なんとか生きることができているような気がします。
だれにでも、思い出したくない、忘れてしまいたい過去のできごとはある
のではないでしょうか。
あのとき、ああしていなければ・・・、といった後悔の思いは誰にでも多少
はあるのではないでしょうか。そして、それを、あえて前向きに、「忘れる」
ことによって、先に進むことができるのではないかと思います。
「すなわち、後ろのものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、
目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与
を得ようと努めているのである。」と、パウロは聖書のピリピ人への手紙3章
13・14節で述べています。
では、また。
ラジオドラマがむかしありました。
「君の名は」というタイトルだったと思いますが、その放送の時間には、
当時は終戦直後で家に風呂があるという人は少なく、風呂屋にいく人が
多かったのですが、風呂屋がガラガラになるという現象が起きていたそう
です。
ところで、人間は忘れるということがあるわけですが、忘れること、特に
過去の自分の失敗やあやまちなどを時間の経過とともに忘れるということ
によってこそ、現在なんとか生きることができているような気がします。
だれにでも、思い出したくない、忘れてしまいたい過去のできごとはある
のではないでしょうか。
あのとき、ああしていなければ・・・、といった後悔の思いは誰にでも多少
はあるのではないでしょうか。そして、それを、あえて前向きに、「忘れる」
ことによって、先に進むことができるのではないかと思います。
「すなわち、後ろのものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、
目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与
を得ようと努めているのである。」と、パウロは聖書のピリピ人への手紙3章
13・14節で述べています。
では、また。
Posted by 富田昭生 at 19:33│Comments(0)